2008-03-01から1ヶ月間の記事一覧

市谷のお堀の土手の桜が満開。見事な風景をかもしだしている。今日のミサの行き帰りに土手を歩いた。道のゴミ箱はゴミの山、昨晩の宴の残骸である。今日もその宴が続くのか、すでに場所取りに来ている人がいる。いやな思いにとらわれた。 やはり、上を見るの…

明日への遺言

昨日「明日への遺言」という映画を観た。第二次世界大戦中に名古屋を無差別爆撃した米軍搭乗員処刑の罪に問われた、岡田資中将の裁判の模様を描いた作品だ。非常に見ごたえのあるあっという間の110分だった。 その中で裁判委員長は問う、「処刑は報復か」と…

内なる未来に開く

25日から3日間に亘ってイエズス会の岐部ホールで行われた霊性研究会に私は出て参りました。 テーマは列福される殉教者の霊性ということで、その流れは、「殉教者の霊性」溝部司教さまで 始まり、「信徒たちを支えた司祭・修道者の殉教―秘跡に生きる司祭た…

カマ

昨日は久しぶりに西成に行ってきた! うちの三人のシスターたちの写真を撮るために。 そして、久しぶりのSちゃんも一緒に訪問した。彼女は5,6年前、勉強しながら週に一度は釜が崎に通っていて、ボランティアをしていたのだった。久しぶりだなぁ〜と言い…

主よ あなたはどなたですか?

復活祭のあとの八日間のミサ中の福音朗読はイエスの出現の場面が読まれます。わたしはどの場面も好きですが、特に今日の福音の箇所、ヨハネ20・11〜18が心に深く入ります。イエスをこよなく愛していたマグダラのマリアがイエスの出現に出会ってもイエ…

喜びの響き

Arcabas et les pèlerins d'Emmaüs ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから 六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって 歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、 一緒に…

復活の朝に

夜が明けてゆく すべての闇を呑み込んで わたしの心に 新しい光が 昇り始める すべてを閉ざし すべてをふさぐ 重い扉は 主よ あなたの手で開かれてゆく わたしは見たのです 石はもう取り除かれた わたしは見たのです あの方はもうここにはいない わたしは走…

聖土曜日

援助修道会HPの国際的つながりのコーナーにて「聖土曜日のマリア」という祈りのための記事をアップしています。↑の字をポイントしてください、リンクしていますので、ぜひごらんください。 聖週間をすごす中で、聖木曜日、聖金曜日、そして、聖土曜日と続…

「ご大切に」

今日はカトリックの暦では聖木曜日にあたる。ミサの中ではヨハネによる福音書 13・1〜15が読まれる。その中の一節に「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時がきたことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(新共同訳…

誤算

一年と少し前、偶然振当てられた8つの数字。 読んでみたら、こう読めた。 「誤算のように、苦労しよう。」 誤算のように、誤算のように。 これがわたしの、この一年の合言葉。 苦しいとき、疲れたときに、繰り返す。 誤算のように、誤算のように 誤算のよう…

平和にむかう道

昨日は久しぶりに六甲修道院に行って、PCの相談にのったり、テレビのケーブルを見たり(電気屋さんみたいだね)、あと、みんなの写真を撮ったり、さらには美味しいお食事をいただいて(美味しかったよ!)、そして最後C神父さんによるミサに与ってきた。…

棕櫚に注ぐ光

祈りのなかにある・・・としか言いようのない生活、って感じのもの。今朝、この言葉を味わいながら、その奥行きに「何があるのかな」と、あえて言葉にするなら、「誓願生活と日々の識別」というそんな響きが聴こえてくる。今日はとても良いお天気、庭の棕櫚…

生活の中に祈りがある。たぶん意識の域で考えてみると、ある宗教に属する人々はこのような生き方をふつうにしているだろうと思う。それぞれに宗教独自の儀があって、そこに参加する。 あるいは、自分の生活空間の中にそのような場所があって、時間になったら…